HOME > HP-下米内 > 私たちのまち明日へ語り継ぐ下米内 > 写真から見る下米内の今昔 > 風景の移り変わり 昭和17年(1942)落合橋から一本松を望む。東野光一郎と横川省三甥の妻楠本幸子。一本松に家が3軒しか認められない。また、現在の上米内湯沢線の県道には車一台分の轍が見られる(先人記念館より) 同上。先人記念館の説明文には”横川省三が遊んだ下米内字一本松付近の米内川の渓流”とある。今もこれらの岩はこのままの形で残っている。簗場として利用された時代もあった 昭和20年代と思われる。昭和6年(1931)に開所した岩手サナトリウムと桜並木。サナトリウムへの道が細い 昭和20年代。サナトリウム前の寺並の通り。石垣の一部は今も残っている 現在の中津川病院と和敬荘(岩山から撮影) 昭和30年代。山田線を走る蒸気機関車。かすかに永福寺のお堂と寺並に1軒の家が見える。現在の紅葉が丘にも家が見当たらない 昭和39年(1964)サナトリウム裏山から八雲神社方面を望む。稲架(はせ)がけされた稲穂と馬っこが整然と並ぶ情景。つつじが丘団地もまだ出来ていない 昭和44年(1969)山田線の線路から中堰を挟んで寺並(現二丁目)方面を望む 昭和43年(1968)浅岸橋が架け替えされるまでの仮橋。現在の橋よりも少し上流に位置している 昭和44年(1969)水道橋から岩手サナトリウムを望む。手前が中津川、右から合流する米内川。河川敷に馬、サナトリウムの西に美しく耕された畑、そのずっと先に岩手山がうっすらと見えている 昭和38~40年(1963~1965)頃。東北電力米内発電所。昭和17年(1942)に運用開始。現在東北電力の練習所となっている米内配電詰所に社宅があり、10世帯ほどが住んでいた。その後方に茅葺屋根の集落伊勢澤が、さらに後方に現在山與の砕石所となっている通称ダルマ山の元の姿が見られる 昭和53年(1978)頃 下米内二丁目 田んぼいっぱいに黄金色の稲穂が見える。山があって、田んぼがあって、ディーゼル車が走る。 昭和56年(1981)、療養所前(北潟)踏切から和敬荘を望む。踏切は今よりも100m東側にあった。 昭和49年(1974)落合からサナトリウムを望む。曲がった畔(くろ)の向こうの山田線を貨物列車が走る。左手の丘に美しい畑と奥に残雪の岩手山が見える 上と同年同日。水道橋からサナトリウムの桜を望む。手前が中津川、右から合流する米内川 昭和60年(1985)分譲中の中津川ニュータウン。手前にソバ畑が広がる。 昭和60年(1985)一丁目の分譲地。右側のフェンスは水道取水隣の下米内落合幼児公園 昭和57年(1982)、中津川病院の裏山から岩山を望む。中央左に八雲神社の森が見える。右端に見える児童センターの位置、踏切の位置、田んぼの中を病院に延びる道路に注目 昭和59年(1984)頃、上の写真と同位置からの撮影。山田線より北側の二丁目が造成中 昭和61年(1986)、山岸三丁目さくらがおか保育園付近から二丁目全体を見渡す。まだ田んぼが残っており、二丁目が出来上がる順序がわかる写真である / 写真から見る下米内の今昔 Post Share Pocket Hatena LINE URLコピー 2022年1月31日 2022年9月12日 author