中津川の洪水歴史

中津川の洪水歴史

(明治43年8月・9月の水害)
43年8月と9月に大洪水あり,ことに9月3日は未曽有の大洪水で全市中浸水をまぬがれたのは 僅わずかに六日町だけであった。北上・中津二川の出水甚しく3日午前2時には北上川1丈5寸(約 4.5m),中津川6尺(約 1.8m)に達し,両川沿岸の市街地に浸水し暴風雨止まず,見るまに増水急に,5時にはよの字・毘沙門の両橋落ち,北上川は1丈2尺5寸(約 3.8m),中津川は8尺(約 2.4m)以上に出水し,7時には下の橋流失し,8時より9時に至り,家屋木材流下のため,明治橋・上の橋もまた流失するに至った。午後2時に至り中の橋も遂に落橋し,ために市は三分せられ交通全く杜絶し,わずかに残余の電話線により連絡することを得た。ために市内各方面に11ヵ所の罹災者の避難所を設け千余人を収容し,7ヵ所に焚出給与所を設け数千の罹災者に給与した。4日午後には北上川1丈6尺余(約 4.8m),中津川はほゞ1丈2尺(約 3.6m)に及んだが,3時より2川とも漸次減水するに至ったので,午前10時に至り,工兵隊は中津川の激流を冒して渡船を2ヵ所に開始し,また北上川に於ては明治橋流失の地に渡船を開き,漸ようやく市内に於て聯れん絡することを得た。被害は死者1名,傷者1名,住家全潰17,半潰49,破損 271,流失69,床上浸水 1,343,床下浸水 1,147,橋梁流失11,田浸水約 120町歩,畑浸水65町歩に及んだ。 『盛岡市史 第7分冊「明治期下」』より

『盛岡市大洪水写真帖』(田口商店美術部 1910年)より、「盛岡市及附近水害図」

(大正12年7月の水害)
12年7月の洪水は,22日朝よりの豪雨で,八幡町片原裏の桜川は4尺(約 1.2m)の増水で氾濫し,上うわ小路方面より神子田方面一体は泥海と化し,浸水家屋は 100余戸に達した。各町の下水溝も溢水し,八幡町の40戸,新馬町の67戸をはじめ,鉈屋町・新築地しんちくちの床下浸水があった。仙北町方面は北上川の増水のため,青物町より本宮に通ずる土手破壊し,
仙北町方面の浸水も多数あった。中津川もまた増水し,河岸の石垣長さ15間(約27m),巾5尺(約 1.5m)崩壊し,消防員70余名の応援を得,附近樹木を切り,崩壊の箇所に埋め,防衛につとめた。 『盛岡市史 第8分冊「大正期上」』より

(昭和15年9月の水害)
15年9月,懸念された二百十日も豆颱風の擦過傷程度でさして被害を見ず一安心のところに2日午後から降り出した梅雨型の雨はふり止まず,3日,4日とつづき,4日夜より豪雨となり,就中県中央部の各河川の増水物凄く,中津川は増水6尺(約 1.8m)以上に達し,濁流渦をまき十数年の増水ぶりで5日朝までに,岩手・紫波・稗貫三郡下の橋梁流失し,盛岡市内の家屋浸水,道路の冠水崩壊等の被害で5日正午県土木課に達した報告によれば,盛岡菅内北上川明治橋5日午前8時水量3米20とある。 『盛岡市史 第10分冊「昭和期下」』より

(昭和18年10月,19年7月,28年7月の大雨)
ついで18年10月3日,4日は県下一般に暴風雨あり,盛岡の降雨量95粍みりを示し,19年7月19日より22日は豪雨あり,中津川増水甚しく流失家屋十数戸に及び市内水道が全面断水、復旧工事に20日余り要している。浅岸橋より道路に水が上がり浅岸村本通り水深1.5ⅿこのとき御持筒町川端道路、下米内北潟の道路が流失している。28年7月23日豪雨あり,19日以来降りつゞいた雨に各河川増水したが,甚しき被害を見るに至らながった。 『盛岡市史 第10分冊「昭和期下」』、「中津川の歴史 盛岡市教委」より

2024年8月28日増水した中津川

Ⅰ 明治期における盛岡市の災害

Ⅱ 大正期における盛岡市の災害

Ⅲ 昭和期における盛岡市の災害

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