下米内の遷り変りのあらまし

下米内の遷り変りのあらまし
 米内の語源はアイヌ語で 「神様の居る沢」と言われ、昔から米内川は神様の居る川であるから、川で人間が死ぬようなことは無いと語り伝えられてきました。

 いつの頃からは不明ですが、米内川の上流地帯を上米内、中流地帯を中米内、下流地帯を下米内と呼び、流域には縄文時代の遺跡の多いことで知られています。

 天正の昔、南部信直公が不来方城の福士氏の目付役として、岩手郡一方井城の城主、一方井安政の子、政長に米内を領地として与えました。政長は上米内の畑井野に居城を定め、これを米内舘と称し、自分は米内民部右近政長と名乗りました。

 南部信直公が三戸から盛岡に居城を移すに当り、米内政長が米内村の豊富な山林資材を運んで信直公を助けたと云われています。

 米内政長が米内に居城をかまえる前の中世期には、福士一門の元信弥六が三百石取りの郷士として下米内に舘をかまえていましたが、米内政長が米内の領主となるに及んで、浅岸方面に移ったとのことです。下米内舘の所在は不明であります。

 元和元年、南部利直公が三戸から盛岡に移ってきましたが、南部藩では、米内村の森林資源を重要視し、米内村一円を、藩の直轄地として、浅岸村下林の山奉行を置き、綱取山から米内にかけて、山林地帯に、食糧として、栗、くるみ、五葉松を、建築資源として、松、杉、楢等を植林管理してきました。

 明治維新の改革で、盛岡県下米内村となり、後に岩手県南岩手郡米内村下米内から、岩手郡米内村大字下米内となり、昭和三年四月一日付で盛岡市に併合、盛岡市下米内となりました。その間、大正十二年には国鉄山田線が下米内のど真中を上米内に向って走り、近代文明の風が少し吹き込んでまいりました。

2022年1月28日

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