下米内概観

下米内概観

 下米内町内会は住居表示上の下米内一・二丁目と米内川流域に位置する字大豆門、字佐倉、字伊勢沢、字馬場野、字一本松を範囲とする。隣接町内会は東側に上米内、西北に山岸、南側には中津川を挟んで浅岸自治会がある。

 地形的にはこの範囲は二つに大別される。西側の下米内一・二丁目は北に山を背負い、南には米内川、中津川が (途中合流し中津川となる)東から西へ流れる平坦地である。一方、東側の大豆門、佐倉、伊勢沢、馬場野、一本松は米内川を挟んだ両岸に位置し、それぞれの沢筋に住居が点在する。

 米内川と中津川の流路は、アルファベットのYの字を連想してもらいたい。Yの字の一画が米内川で、二画目が中津川である。会流点は中津川に架かる水道橋と、米内川に架かる落合橋の下流にある。

 この地域は古来より人間の住みやすい場所であったらしく、縄文時代以降の遺跡が散見される。特にも、中津川は鮭の遡上で知られており、山の資源と川の資源の両方に恵まれた地であったと思われる。

 中世では佐々木館の存在が知られており、詳細は分からないが、南部氏に滅ぼされたという言い伝えが残っている。なお、この館跡の周囲には佐々木姓の住家が集中しているが、館との関連は不明である。

 江戸時代には盛岡藩の治世下で、上田通り(盛岡藩の行政区)の一部に下米内村は組み込まれている。この時代の大半の産業は農業であった。この時代になると、史料として残されているものが散見され、現在、いわゆる旧家といわれるものも現存する。

 近代になると、上米内村、下米内村、三ツ割村の一部、上田村の一部が合併して岩手郡米内村となるが、昭和3年(1928)4月1日に盛岡市に編入され、市の行政区の一部となった。

 大正12年(1923)10月10日には山田線の盛岡-上米内の9.9kmが開通し、上盛岡駅、上米内駅が設置された。山岸駅が設置されたのは昭和26年(1951)1月のことである。

 昭和6年(1931)には「岩手サナトリウム」(結核療養所)が開院している。サナトリウムは本来、気温や空気など環境の良い場所に設置され、療養効果を高めるものである。この地にこのような施設が置かれたということは、住環境の良さを示している一例である。(現在はこの施設はなく、昭和61年からは中津川病院として地域医療に貢献している)

2022年1月23日

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