中津川ニュータウンの開発

中津川ニュータウンの開発

 下米内地区は北側に山を背負い南面し、山岸駅も近く、市の中心部まで平坦で坂があるわけでもない。しかも中津川沿いで、春夏秋冬の風光明媚さもあり、住環境としては絶好の地である。

 それまでの田園地帯が、時代の波にのまれるように宅地化されていくのはいつ頃からであったろうか。現在、下米内一・二丁目に住まいする多くの方々は、宅地化が完成した後に移転して来られたので、その経緯を知る人は少ないと思われる。また、古くから住んでいる方々も、今となっては、気がついたら宅地化が進んでいたということになるのではなかろうか。

 ちょうど、コメの生産調整が政策として取り上げられ、いわゆる「減反政策」も宅地化に拍車をかけたのでなかろうか。幸い、盛岡市の都市計画課宅地開発係に、宅地開発に関する閲覧できる資料が保存されていた。

 それによると、開発の事業主体となったのは、「中津川NT共同事業体」で、これは株式会社東京土地開発と株式会社青木建設の共同事業体である。

 この事業体から開発計画および申請が出され、開発が進められていった。その資料によると、最初に手掛けられたのは昭和57年で、現在の二丁目の寺並児童公園以西の部分である。その次が現一丁目の部分で、ここは59年である。この二ヵ年での開発はニュータウンの全域ではなく、その後も昭和62年、平成2年、8年、9年、10年と継続して小規模な開発が行われ、現在のニュータウンの宅地化が進められている。そして、昭和59年9月と11月には岩手日報に中津川ニュータウン売り出しの広告が出されている。これにより世帯数の増加がなされ、昭和60年度の世帯数281に対して、5年後の平成2年度には435世帯を数え、世帯人口の急増期を迎えることとなった。(現在は約560世帯である) 

 さらに平成3年11月からは住居表示が、それまでの字 (あざ)北潟、落合、寺並と佐倉の一部が、山田線を挟んで下米内一丁目と二丁目に変更となった。  

2022年1月26日

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