昭和期の下米内

昭和期の下米内

 昭和期のこの地域を詳述すると、前述の伊勢沢、馬場野、一本松、大豆門、佐倉の他に、現下米内一丁目に該当する字落合、字北潟、二丁目に該当する字寺並、字北潟に居住する方々で下米内部落会なるものが存在した。世帯数は60~70程であった。

 昭和3年(1928)には上米内から新庄浄水場への送水管が伊勢沢から落合橋までの道路に敷設された。また、米内発電所は昭和17年(1942)12月に大豆門地区に建設され、発電所関連の従業員宿舎も付随し、結構な集落を形成していた。この発電用水は、外山ダムから外山森林公園のある四十八滝を流れ落ち、大志田から送水管で伊勢沢まで送られ、急斜面を100m以上の送水管落差を利用している。この米内川は冷たく、中津川との会流点とでは水温が10度近くも違う。水浴びするには浅岸の子どもたちも冷たい下米内側から入ったものだった。合流点は馬も沈むほど深く、毎年溺れて亡くなる方がいた。

 川にはウグイ、ヤマメ、カジカ、鮎、イワナ、マス、鮭、ウナギ、ぎん魚 (ぎんぱち)、またカジカ蛙やホタル・トンボが、水辺にはカワセミ、ヨシキリ、冬にはカワガラスが飛び交い、水田にはドジョウ、フナ、コイ、スナッペ (しまドジョウ)等がおり、子どもたちは初夏から魚取りに明け暮れた。

 中津川・米内川合流点の下方の御影石の堰堤は昭和18年頃に造られた。下米内側の取水は道路下を直径1m程の管を通り、山岸・中央公民館裏の自転車道路から愛宕町・名須川町・三戸町・長田町・ 西下台・梨木町の水田を潤して、たわわに実る稲田を作り北上川に流れていた。

 下米内二丁目を流れていた中堰は、米内発電所の堰堤から取水し、佐倉・寺並 (二丁目) ・落合・北潟 (一丁目)の水田だけでなく、山岸地区の水田にも使われていた。

 山輿砕石所下手からの取水は大豆門・佐倉地区の水田に使われた。これらの地域では、秋の稲刈り時にはイナゴ捕りが盛んに行われ、昭和20年代には小学校でイナゴ捕りの時間があり、それを食料として現金化することもあった。昭和30年代までイナゴを捕って食べていたことをおぼえている。

 また、閉伊街道山と山輿の所に草刈り場があり、冬場に牛馬の飼料として共同で草を刈り、馬屋に保存していた。

 この地域が大きく変貌するのは、昭和58年(1983)から始まる中津川ニュータウンの造成である。同時期には桜台ニュータウンの造成も行われている。それまでの田畑が広がり、農家が点在する風景はみるみる住宅地へと変貌を遂げていく。JR山田線を挟んで北潟、落合が下米内一丁目、寺並が同二丁目と変わり、それまでの60~70世帯の集落が500世帯を超える町内会になっていった。

 ニュータウン開発では遺跡の発掘調査、道路の付け替え、踏切の付け替え等々の付随工事も行われ、バス路線の新設も行われた。

2022年1月23日

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