横川省三氏(日露戦争の英雄)

横川省三氏(日露戦争の英雄)

 町内、一本松の入り口に「横川省三生誕地」の木製の案内板があります。そして一本松に入ってしばらく行くと、左手の丘の上に屋根をかけられた横川省三の木像 (遠藤直次郎制作)があります。この木像は、平成2年(1990)に下米内町内の有志の提案で設立された 「横川省三木像建立委員会」により設置され、同4月22日に建立・除幕式が行われたものです。

 また当時は、横川省三が花巻市東和町の横川家の養子になったという縁で、下米内町内会と東和町との交流会が何度か行われていました。さらに、盛岡市上田の高松の池畔の神庭山に石製の台座があります。今では台座のみで、これは何なのか、知らない方が多いのではないかと思われますが、この台座には、かつて志士・烈士と言われた日露戦争の英雄、横川省三の銅像がありました。そしてその脇には横川省三を含む六烈士の弔霊塔があります。この銅像は昭和5年(1930)、当時の北田親盛岡市長らが発起人となり建立、昭和6年4月21日に除幕式が行われたものです。しかし、この銅像は昭和19年(1944)、第二次世界大戦の激化に伴い、金属供出により撤去され、台座だけが歴史を物語るかのように残っています。(ただし銅像の原型は北山の報恩時に展示されています)

 横川省三は元治2年(1865)4月4日、南部藩士三田村勝衛・クニの二男として南岩手郡下米内村下米内 (現盛岡市下米内字一本松)の叔父である東野光好の屋敷で誕生し、勇治と名付けられ、幼少期をここで暮らしました。その後、明治17年(1884)に山田清治の養子となりました。勇治は岩手中学(現盛岡一高)在学中から自由民権運動に身を投じ、一時上京するも明治20年(1887)の保安条例により東京退去となり帰郷、郷里においても自由民権運動を行い、全国への発信活動をしていきます。

 明治22年(1889)には岩手県東和賀郡十二鏑材 (現花巻市東和町)の横川家の入り婿となり、横川勇治と名乗り、妻となった横川佳哉との間に二人の娘が誕生しています。勇治は再度上京し、東京朝日新聞の記者となって日清戦争の従軍記者、明治三陸大津波の現地取材等で活躍しましたが、明治30年 (1897)に退社し、渡米して活動の場をアメリカに求め、農業経営や移民者のための邦字新聞社を起こしています。この途中、明治31年(1898)に妻の佳哉を亡くしています。

 明治33年(1900)に帰国し、京橋にあった民生新聞社に入社します。そして明治34年(1901)には名前 を横川勇治から「横川省三」と改名しました。その後、日露戦争開戦で満州に渡り、特別任務班の一員に選ばれて特殊工作に従事。明治37年(1904) 4月11日、ロシア軍の東清鉄道爆破任務のためラマ僧に変装して当地に潜入した時、目標の直前で同士の沖禎介と共に巡回中のロシア兵に発見され逮捕されました。ハルピンでの軍法会議にかけられた後、同年4月21日、沖と共に銃殺刑に処せられました。このとき横川省三は40歳、沖禎介は31歳でした。

 横川省三は処刑前に所持金の五百両全てをロシアの赤十字に寄付、また二人の軍法会議や銃殺刑に処されるまでの武人としての堂々たる態度は、当時のロシアの関係者や市中の人々、各国の新聞記者に注目されました。また、横川省三が処刑前日に二人の愛娘宛てにしたためた有名な遺書は、現在盛岡市先人記念館に展示されています。横川省三の遺骨は後に、埋葬されていた銃殺刑の場所から移され、盛岡市北山の聖寿寺に埋葬されています。

 参考文献・資料:池野藤兵衛著 「明治の青春横川省三」、幕内満雄著 「獅子の夢」/盛岡先人記念館

2022年1月27日

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